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☆西行法師と清盛入道は同い年の親友でした

           題名:西行と清盛
    整理番号:E-09
            ジャンル:人伝         
            著者:嵐山光三郎 
            出版社:集英社


内容・感想: 
当時、坊さんといっても二種類ありました。
一種類は本来の坊さんで、寺墓を護り、人々に精神面での救いを説く。
もう一種類の坊さんは、俗世の戦乱などから身を守るための
保身手段として入道するとか、荒廃した世の中につくづくあきあきして、
出家するとかして、体裁上は得度をして墨衣をつけて手には
数珠などを持って、いかにも坊さん然としてはいるけれど、
心の中で、考えていることは、およそ外凡にも
似つかわしくないもので、保身のためには
平気で殺生もするような人種であったと思われます。


西行(さいぎょう)はその後者で、ろくにお経も
あげられなかったのでは、あるまいかと思われます。
しかしながら、吹き荒れる時代の背景を思えば、
政治に多少なりとも関係する人間にとって、
この様なことは已むを得ない当時のトレンドで
あったでありましょう。


西行など23歳の若さで、頭を丸めて俗世の嵐から
退避したけれど、それでも何回も命を狙われ、
武術に精通していたから辛うじて救われたようなものです。


元永元年(1118年)、
西行(俗名を佐藤義清(のりきよ)と云う)も、
清盛も、歳を同じうして生まれております。
そして両者は共に、鳥羽上皇の警護をする
近衛軍団、所謂「北面の武士」としてお互い顔を合わせました。


以来、両者は激動する乱世の中で平治の乱においては、
敵、味方に別れながらも親友として助け合っております。


この両者の対比記述が面白い。
北面の武士は武術にのみ傑れていればよいと
云う訳にはいきません。
社交界で公家輩に馬鹿にされないためにも、
文武両道をこなさねばなりませんでした。


特に和歌の道は重要で、思ったことを歌に詠み込んで、
婉曲に相手に伝えるのが優雅とされた時代であり、
単にラブコールのみならず、政治的な伝達も歌が
介在する始末なので、
これをマスターするか、しないかで、
すごいハンデになりました。


西行は和歌にも精通してましたが、
清盛は、からきしダメでありました。
歌会などあると、西行からカンニングペーパーを
もらって清盛は冷汗タラタラで人の歌を
詠み上げていたそうです。


半面、清盛は経済的には恵まれておりました。
父、忠盛の代、瀬戸海の海賊をやっつけたり、
宋國と貿易をして儲けたり、
平氏は海事には傑出しておりました。


一方、西行は紀州の貧乏荘園を弟に譲って都に出て来て、
やがて出家したものですから、収入源が全然ない状態でした。
清盛に歌を売っては宋銭を貰うのが、
とても必要であったのです。


次ぎなる両者の対比は、人生観です。
清盛が信西に用いられ、朝廷に近づくにつれ、
止むに止まれぬ出世欲に邁進していくことに、
西行は警告を発しております。


他を蹴落とし必死によじ登って、やっと勝ち取った
権力の頂点の座に坐ったときから、そのヒーローは
次のヒーローに滅ぼされていくと云うのが運命なのです。
平家物語にもいわく、
「奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し…」です。


だから、清盛よ、多くの殺傷を繰り返し、
何でそんなに権力の座を追い求めなければならんのだ、
と西行は云うのです。
しかし、聴く耳を失った清盛は、ついに仏罰によって
高熱にうかされながら因果な死を遂げるのでありました。
あな、恐ろしや、おそろしや・・・


ところで、先ほどの平家物語にも出て来る信西(藤原通憲)も
諸行無情な最後を遂げた一人でした。
平治の乱で、義朝軍に追われ命からがら落ち延び、
宇治から奈良へ向かう途中、敵に迫られた信西は、
穴を掘らせて土中に身を隠し、竹筒を地上に出して
息をしていたところ、敢なく発見されて引きずりだされ、
首をはねられてしまったのです。
その首は西獄門の樹に掛けられ、道行く人の晒しものと
されました。


思えば、僅か三年前の保元の乱終局時、
宇治川辺の木津あたりで、
悪左府頼長が壮絶な敗戦をしたばかりでありました。
なんともはや、思わずゾクッとするような、
殺伐とした世の中であったことです。