☆ メトロ丸の内線は茗荷谷駅辺りでは地上に出ています。そしてその近くには大きな車両基地があります。何とこの一帯には戦前まで東郷館が繁盛しておりました。
題 名:東郷館の人びと
整理番号:G-15
ジャンル:その他
読んだ時:令和 7 年 86才
著 者:井澤宣子
出 版 社:三一書房
内容・感想:
この書籍は森鴎外図書館「K-129」にあります。
相澤幹太郎・マス夫妻が築いた東郷館と云う下宿旅館の物語です。
その場所は文京区小日向台辺り、北は現在の貞静学園の北、深光寺辺りから
南は本法寺辺りまでの広きに亘っており、数多くの家屋をなしていました。
その多くはお寺の敷地を借地した上に建てられたものでした。
本拠は文京区小日向台の北側、現在の地下鉄丸の内線茗荷谷駅辺りで
東郷館別荘と称し、1000坪を優に越しておりました。
その他周辺一帯に、幹太郎は次々と貸家を建てたのです。
大正の初め頃の事です。
客は帝大生、陸海軍の将校、高等師範の教師などなど多数の人が賄い付きで
逗留していました。
賄い迄提供すると云う事は大変手間の掛ることですが、働き手は郷里の新潟から
数十人集め、総ての指示やりくりは妻のマスが取り仕切っていました。
幹太郎は新潟の出で、17歳の頃上京し、下宿生活をしながら生きる道を
模索しておりました。
連合いのマスも新潟の出身ですが、偶然東京で知り合ったようです。
それにしても下宿旅館業の先行き需要に目を付けたのは素晴らしい着眼だったと
思います。
扨て、その資金はというと、幹太郎か゛マスと夫婦になり第一子太一が
生まれた段階で、親の相澤玄純は大反対だったようで、結局は縁切りの意味で
何がしかの金銭を幹太郎に渡し、幹太郎はそれを資金としてこの商売を
始める事が出来ました。
明治の終わり頃から大正昭和にかけて、東京一極集中の時流に乗り、
この下宿旅館業は当たりにあたりまくりました。
明治29年長男太一に始まり、5男6女の大家族になり、その孫世代も33人に
なったと云うから驚きです。
しかし盛者必衰は普遍的でして、そもそも裕福な家庭の子は兎角だらしないのが
多いもので、しっかり後を継ぐ者も無く、そこに持ってきて昭和20年に
終焉した彼の東京大空襲で、すっかりダメージを負ったと云う最後でした。
相澤幹太郎の人生と高野五郎の人生を重ねて見て、ちょっと似た面があるなと
思ってます。
勿論時代のズレはあります。
幹太郎、明治19年頃新潟から上京し、東京で生活を始めた。
五郎、大正11年大分県から上京し、東京で生活を始めた。
事業を起こし、妻を娶り、多くの子を儲ける。
晩年事業が衰退を辿り、一代で終了する。
「東郷館」の名は幹太郎が、当時日露戦争で凱旋した東郷元帥の名を借りた
ものです。
そしてこの本の著者井澤宣子さんは幹太郎の四男坊亨一の長男の妻(1932年生)
です。
この著書には相澤一家の詳細が書かれてますが、それは著者が分厚い
旧戸籍謄本を調べ、幹太郎の子供や孫達からの口述などから纏め上げた
ものです。
幹太郎の長男太一が終戦後東郷館のあった土地の一部(寺の土地なので地上権)を
営団に30万円で売り払ったそうです。
昭和27年開通の地下鉄丸ノ内線の車庫と茗荷谷駅が現在ある場所です。
今はもう、小日向台のその辺りに行って見ても東郷館の面影は跡形も無く、
起伏の多い風景に住宅がひっそりと並ぶ一帯となってます。
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