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☆ 誰でも知ってる日本の歴史ですが、意外と思う事が結構あるものです。日本男児の必読書です。

題 名:日 本 国 紀 上下巻
整理番号:C-22     
ジャンル:歴 史
読んだ時:令和 4 年 84 才     
著 者:百田尚樹
出版社:幻冬舎文庫


 内容・感想:
百田先生は我が国の愛国心溢れる熱血漢です。
我が国は過去に何回も近隣の中国や朝鮮とお互いに侵略行為がありましたが、
彼の国は歴史を捻じ曲げて、自国の正当性を主張していると言うのです。


例えば韓国では英雄として銅像も建っている李舜臣ですが、彼の業績は
フィクションが多いと言うのです。
その時代は豊臣秀吉の天下の時です。
二度目の朝鮮出兵の際、事なかばで秀吉が死んで撤兵を決めたのですが、
その際、露梁海戦というのがあり、司令官の李舜臣はじめ多くの敵軍の
将軍が死にました。
それに反し、日本の武将はほとんど無事で撤退したのが事実です。
でも、韓国では李舜臣が日本軍を退け、多大な損害を与えたとして英雄に
祀られてるといいます。


日本の歴史については、私も断片的に知ってる事も多いのですが、
未知で感銘的な部分を古代から順に、ピックアップしながら以下記して
参ろうと思います。


1. 日本有史上、考えられているのは縄文時代と称されるあたりからです。
今から1万2~3千年前からです。 
その頃、即ち1万2~3千年前あたりには、日本列島は大陸と陸続きの
時期があり、民族がカムチャッカ半島経由、あるいは朝鮮半島経由で
渡って来たのではないかといいます。
縄文土器は日本全国各地で今も発掘されています。


2. 世界どこを見ても日本ほど天皇家が続いている国はありません。
しかも「万世一系」を貫いています。
「万世一系」とは、初代神武天皇から今上天皇迄、ズーッと男系で
血が繋がっていると言う事です。
歴代天皇を辿っていくと、確かに持統天皇など何人か女性天皇はいましたが
その子供は天皇を引き継ぎません。
それどころか、過去の女性天皇は総て一生独身を通しているそうです。
現在令和天皇の後継ぎに関し、論議がなされていますが、あっさりと
長女の愛子様に決定出来ないのも、そういう事情があるからです。


3. 聖徳太子について。
推古天皇の摂政として、その聡明な頭脳で数々の施政を行ったことは、
有名です。
「聖徳太子」は諡名(おくりな)で、本名は厩戸皇子(うまやどのみこ)です。
当時中国大陸は隋の皇帝「煬帝」(ようだい)の時代でした。
聖徳太子は煬帝に国書を送ります。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」
これを見て煬帝は激怒したといいます。
「天子」は中国皇帝のことのみに使われる言葉だからです。
しかし煬帝は冷静に「以後その言葉は使わないように」と答礼しました。
そこで聖徳太子は考えて、次回の国書では「天皇」と書きました。
これが「天皇」という言葉の使いはじめとか。。。


4. 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)について。
聖徳太子没後、蘇我の蝦夷・入鹿(えみし・いるか)親子が天皇を凌ぐほどの
権力を奮います。
中大兄皇子は入鹿を殺し、蝦夷を自害に追い込み、政権を安定させます。
そして第38代天智天皇となり、中央集権体制をつくります。
都も琵琶湖の畔、大津に移しました。


5. 藤原道長から平の将門へ。
平安時代は藤原氏一族が摂政、関白、太政大臣を独占して栄華を
極めた時代です。
藤原道長の頃になると栄耀栄華に酔い痴れて、時代も末期症状ですが
その中にいる為政者達は知ってか知らずか、勢力争いに明け暮れ、
享楽に耽り切っておりました。
各地では平の将門など武士の台頭が始まっております。


6. 刀伊の入寇。
「刀伊」とは女真族(じょしんぞく)の事で、沿海州地方の
狩猟民族でしたが、後に中国を支配します。
一寸横道に外れますが、女真族は「宋」を攻めて「金」を建て、
「明」を滅ぼして「清」を建てました。
明治時代に入り、「清」の国は少数の女真族が漢民族を御して上に
君臨しておりましたが、内容的には弱体化しており眠れる豚と
化していました。
扨て、その刀伊が、平和ボケした平安時代末期の日本に来襲して来たのです。
それも当時としては半端ない50艘3000人という兵力です。


しかし荒くれ者として大宰府に左遷されていた藤原隆家の奮戦で
無事撃退します。
当然朝廷から多大な恩賞と感謝があると思いきや、
「あっそう、片付いたんならよかったね」でお仕舞だったとか。
威敵に対する防御など全然考えてもいない、アホさ加減甚だしい、腐敗政権で
あったようです。


7. 崇徳上皇。
百人一首の一枚札のひとつ。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の  われても末に あはむとぞおもふ


崇徳上皇のこの歌は、恋の歌かと思いきや、実は天皇家の
相続争いが無いことを祈る歌なのですね。
崇徳上皇の出自は破廉恥でした。
表向き崇徳天皇は鳥羽天皇の子ですが、実は鳥羽天皇の父の白河法皇の
種なのでした。
つまり爺様が息子の嫁の美福門院に産ませた子が崇徳天皇です。


白河法皇は早々に鳥羽天皇を玉座から降ろし、崇徳天皇を就かせます。
鳥羽上皇は当然大変不愉快です。
そうこうするうち、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は実子を
近衛天皇として就かせます。
しかし近衛天皇は早世します。
するとやはり実子の後白河天皇を就かせます。


早々に玉座から降ろされ、しかも次期天皇の座を自分の自由にして
貰えない鬱憤から崇徳上皇は後白河天皇との間に争いを起こします。
これが保元の乱です。(後述)
崇徳上皇は保元の乱に敗れ、四国の讃岐に流され、
「我 怨霊となって皇室を潰してやる~ぅ」と宣言したのです。
この辺りを雨月物語には、おぞましく書かれています。
西行法師が崇徳上皇の怨霊を慰めに讃岐に赴いた際、怨霊が現れて
西行と問答する様は凄まじいものです。
それは現実となってその後数々の祟りが起こります。
当時の人は祟りと言うものを真剣に怖れていました。


8. 保元の乱。
天皇家の継続争いから崇徳上皇VS後白河天皇で争いました。
崇徳上皇側には藤原頼長(弟)、後白河天皇側には藤原忠通(兄)。
武士は崇徳上皇側に源為義(父)、源為朝(子)、後白河天皇側に
源義朝(子)。
同じく崇徳上皇側に平忠正(叔父)、後白河天皇側に平清盛(甥)が
それぞれ着きました。
見てお分かりのように、互いに近親者同士の争いです。
勝負は一夜にして着きました。


9. 平治の乱。
鳥羽法皇亡き後、皇后の美福門院は後白河天皇を降ろして二条天皇を
玉座に付けます。
不満の後白河上皇は藤原信頼を抜擢し反撃に転じます。
こうして平治の乱は後白河上皇VS二条天皇を軸に始まります。
つまり、この二人は兄弟です。
後白河上皇側には藤原信頼、二条天皇側には藤原通憲=信西。
武士は後白河上皇側に源義朝、二条天皇側に平清盛です。
清盛は義朝と信頼を打ち、結局は実力ある武士の支配する世へと
進んで行きます。


10.  後醍醐天皇。
 時は鎌倉時代末期、執権北条高時の頃、朝廷に政治の実権を取り戻すべく
 後醍醐天皇はクーデター(?)を画策しますが、事前に幕府にバレて、
隠岐に流されます。
その後抜け出して、楠木正成らを動員して再起を謀ります。
幕府は10万の兵をもって、正成がわずか千名の兵で守る大阪の千早城に
攻めますが、智将正成の前に攻め落とせません。
その間、京都の六波羅の幕府探題を攻め落とした足利尊氏と呼応して
幕府軍の撤退に成功します。
また、渡良瀬川を挟んで、足利尊氏とお隣さんの新田義貞は幕府の本拠地
鎌倉を攻めて北条高時・守時を自害に追い込み、ここに幕府は終わります。
やっと後醍醐天皇は政権を取り戻し、南朝の天皇系が主流となります。


11.  楠木正成と足利尊氏と新田義貞。
 鎌倉幕府打倒ではヒーローの三人ですが、その後は違う道を辿ります。
 あくまで後醍醐天皇に忠誠を誓った楠木正成に対し、北朝の光厳上皇を担いで
 寝返った足利尊氏。
 京の都で絶世の美女勾当内侍(こうとうのないし)に骨抜きになった新田義貞。
 現在皇居前で馬に颯爽と跨るのは楠木正成だけです。


12.  豪商三井の盛衰。
 江戸時代に財を成した豪商は多くありましたが、明治以降まで残ったのは
 元禄の頃に店を興した三井ぐらいです。
初代三井高利(たかとし)の呉服屋「越後屋」から始まり、両替商などで
不動の座に着きます。
 しかし明治維新後大財閥となった三井一族でしたが、大東亜戦争敗戦後
進駐軍の財閥解体によって、一族は総ての会社役員の座から追放され、
所有株式のすべてを処分され、全財産の90%を財産税で没収されました。
一族最後の面影は小金井市にある「江戸東京たてもの園」に残ってます。


13.  閑院の宮家。
 江戸時代中期に新井白石が将軍の顧問として政務に就きます。
 聡明な彼は数々の政策を実行しますが、その一つに閑院の宮家の創設が
あります。
 天皇家に世継ぎが途絶えた時の為に、血筋を閑院の宮家として作りました。
 実際にそれから70年後、後桃園天皇崩御の折、後継ぎが無く、
閑院の宮家から 光格天皇が即位しました。
 令和の徳仁(なるひと)天皇はこの光格天皇の直系子孫です。
 尚、この閑院の宮家は昭和20年終戦後、進駐軍により廃止になりました。
最後の閑院家、閑院宮載仁(ことひと)親王は、日本陸軍大将でしたが
折りしも終戦の年に彼は箱根の別邸で亡くなりました。
彼の別邸は今、高級旅館「強羅花壇」に生まれ変わっております。


14.  ロシアのプチャーチン提督の下田来港。
 安政元年日露和親条約がプチャーチンとの間に締結されました。
 この中で北方四島は日本領土である事が改めて確認されてます。
 丁度その来航中、安政の大地震が襲い下田に押し寄せた津波で
プチャーチンの 黒船が壊れてしまいました。
伊豆の代官江川太郎左衛門の指揮のもと、西洋式帆船を伊豆の戸田(へた)で
建造しプチャーチンは無事帰国することが出来ました。
現在、北方領土問題でロシアは突っ張ってますが、プーチン来日の折、
安倍首相は一枚の絵をプーチンに贈りました。
それは「戸田号」の絵でした。
果たしてプーチンにどこまでその意が通じたものでしょうか?


15.  桜田門外の変。
 井伊大老が雪の降る朝に登城の折、水戸藩の脱藩藩士に桜田門外で
殺された事件は有名ですが、警備上の観点から些か疑問点があります。
先ず、彦根藩の護衛藩士は26人、足軽中間共で60名の人数。
これに対し刺客はわずか18人です。
しかも護衛藩士は雪のため、刀に袋を被せていたので、いざ抜刀という段で
手間取り不覚を取ったというのです。
先日、安倍元首相が奈良で参院選の応援演説中に、元自衛隊員の男に
撃たれて死亡しましたが、これも警備の杜撰さが指摘されております。
危機感の欠如において、共通する気がしました。


16.  幕臣小栗上野の介忠順(ただまさ)の死。
 とても聡明にして幕府に忠実な人でした。
 幕府に進言して鉄砲など近代装備を整わせ、横須賀に近代的な造船所を
 造ったのも彼です。
 明治政府がこの造船所で多くの軍艦を建造し、後にロシアのバルチック
艦隊を破ります。
 東郷元帥は小栗氏のお陰大なりと言ってます。
 話は前になりますが、官軍を率いて江戸を目指して無敵進軍していた
大村益次郎でしたが、後日談で小栗の幕府軍の作戦を聞いて、これが
実行されていたら我々の首は飛んでいただろうと言っております。
多くの旧幕臣が明治政府の要職に返り咲いている中、何故か小栗は官軍に
馘首されています。時に慶応4年の事です。
 詳しくは司馬遼太郎の「明治という国家」参照下さい。


17.  秋山好古・真之兄弟の功績。
 日本が大国ロシアに勝った日露戦争。
 陸軍の乃木希典大将、海軍の東郷平八郎司令長官の名は周知の通りですが
 四国松山出身のこの兄弟の活躍は特筆すべきものがあります。
 兄の好古(よしふる)は陸軍で、旅順、奉天の激戦の指揮を執り、
敵将クロパトキンを退散させます。
 弟の真之(さねゆき)は海軍の参謀として、バルチック艦隊をほぼ全滅させました。
 詳しくは司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読むといいです。
 一方、ドラマ化もされました。
 好古役は阿部寛、真之役は本木雅弘がカッコよく演じています。
 郷里の松山にはミュージアムも出来てます。道後温泉で一っ風呂浴びて
 二人の功績を見て来るのも、いいツアーと思います。


18.  明治天皇と昭和天皇のこと。
 「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
 これは明治天皇の御製です。
 天皇は何れの戦争にも反対でした。
この御製を昭和天皇は日米開戦決断の御前会議で読み上げました。
天皇は会議の決定に口を挟まない、それを行えば日本は立憲君主国では
なくなる。。。との見識と信念を常に心掛けておられました。
正に、君臨すれども親裁せずを貫いてました。
厳密には昭和天皇は、二・二六事件で高橋是清、斎藤実大臣が青年将校達の
クーデターで殺害された時は『朕が股肱の老親を殺戮するとは、何の
恕すべきものありや』と、鎮圧の折言われました。
その他、張作霖事件の際と、太平洋戦争の終焉の時、昭和天皇は自らの
意思を露わにされました。
私は昭和天皇を今まで心の中では軽んじていました。
しかし、この本の記述を読み、真実を知り、涙が思わずこぼれるほど
感動しました。


19.  朝日新聞バッシング。・・・・朝日と岩波は赤だ !
 終戦から26年経った昭和46年の事、朝日新聞の本多記者が「中国の旅」
 という連載の中で、南京大虐殺を取り上げ、いかに日本軍は残虐な事を
 行なったかを読者を引き付ける筆致で書きました。
 しかし、当時20万人の人口の南京で30万人の虐殺と言う事だけでも
 おかしい話です。
 事実、戦後の軍事裁判で南京に関して死刑になったのは松井大将一人でした。
 そして26年を経て、本多記者はわずか1泊2日の南京取材で
嘘と出鱈目の元、朝日の読者の興味をそそるタッチで書いたものでした。
それ以降、中国はこれは外交カードに使えるぞと取り上げる様になりました。
その他にも朝日新聞がアジった記事は「朝鮮人従軍慰安婦問題」
「首相の靖国神社参拝非難」などでも捏造とほちょうが恰も真実のように
罷り通りました。
単に大新聞の記事だから本当だろうとの思いこませです。
朝日の論調は兎角極左です。


20. 総 論。
 今から1万2000年程前、まだ日本が大陸と繋がっていた頃、大陸から渡って
 来た様々な民族。
 縄文土器を作った民族はその後、島国に住む人類として独特の文化を形成して
いきます。
大陸から何度も押し寄せて来た賊を退けて参りました。
尤も近くは、江戸時代末期にやって来た白色民族をも、辛うじて征服されずに
乗り切りました。
この時は本当にヤバかったのでした。
当時先進国の白人族は世界を黒船で巡り、植民地獲得競争を繰り広げて
おりました。
日本近隣の有色民族は悉くその餌食となる中、愛国心に燃えた英雄たちの
命を張った活躍により、独立国家の形を保てたのです。
そして、その列強白人どもの文化、技術等々を日本人の持つ素晴らしい
学習力で迅速に吸収し、瞬く間に先進国の仲間入りを果たしてしまいました。
何と素晴らしい我々日本民族なのでしょう !
混沌としている現代、我々日本民族はもっと自信を持って、諸先人に
笑われないように乗り切っていかねばなりません。