☆心は常に水の如くなるように、氷にならないようにしましょう。
題名:佛との出会い
整理番号:A-07
ジャンル:仏教など
読んだ時:平成10年59才
著者:紀野一義
出版社:筑摩文庫
内容・感想:
感銘を受けたところ・・
その一・144頁~
人間の情緒、ひいてはその人の将来は
幼時期の環境に左右されるということ。
例えば、三味線を習うのは、六才の六月六日から
始めると良い、とか。
全宇宙的に存在する世界と、
その森羅万象は恒久普遍に存する。
それを阿頼耶識(アラヤシキ)と云います。
我々人間がそれを認識する、
そしてそれを取入れ、考え、悩んでいくという
意識が働いていく。
これを末那識(マナシキ)といいます。
そのような大自然の中からスムーズに
体得していけるのが幼時期なのだと、
昔からフロイトやヘッセなど識者も云ってます。
ところでこの「意識」という言葉は、
僕たち日常よく使っていますが、
これも仏教から来ている言葉です。
般若心経に“眼耳鼻舌身意”とあり、
これを六識と言いますが、
この最後の意識と云う言葉が
日常語となったものです。
この他にも仏典に由来する日常語は
枚挙に暇ないほど多いですが、
おもしろい例を一つ挙げますと、
江戸時代に出来た東海道五十三次というのがあります。
まあ、歩いて行くのに丁度手ごろな間隔で割ったら
五十三になったのかも知りませんが、
600キロ÷53=約12キロにしかなりません。
これでは3時間も歩けば次の宿場に着いてしまいます。
「華厳経」(ケゴンキョウ)に「入法界品」(ニュウホッカイホン)
という章があって、そこに善財童子と言うヤカラが
登場します。
この者は悟りを求めてインド国内を旅して歩きますが、
その間に五十三人の師匠に教えを乞いました。
こんなところから、少々多いが縁起のいい五十三次に
なったとか云われてます。
その二、160頁~
人は生まれながらにして、
大きく四つのジャンルに分かれています。
今で云えばDNAに現れているということでしょうか。
1.声聞種性…(ショウモンシュジョウ)俗に云う生まれがいいという類
2.独覚種性…頭が良くて冷静に自然を観察できるような人
3.菩薩種性…読んで字のごとく、心の広い人
4.不定性 …これは便利な種で、上の三つの
どれにでも成れる素質をもっている人
しかし、始末が悪いのがイッチャンティカと
云うやつだと云います。
いくら教えても解らない人、どうしようもないけど、
死にぎわに南無阿弥陀仏などと唱えてから、死んでいく人。
天台宗では、そんな種性でもお救い申そうと云っています。
その三、196頁~
人は常日頃より「据え物」に徹すべし、ということ。
その昔、九州熊本の細川越中の守の家来に、
都甲太兵衛(トコウタヘイ)と云う人がいました。
身分は低く風采も上がらぬ男でしたが、
晩年当藩に身を寄せていた宮本武蔵に
“侍らしい侍”と折り紙をつけられました。
何故か?
殿様は本人を呼び寄せて尋ねましたが、
なかなか解りません。
しかし、重い口からようやくそれらしきことを聴くに、
曰く・・・「それがしは武道と申してもなに一つ、
仕でかしたことはございません。
ただ、武士たるもの常日頃から据え物としての
本分に徹していようと、心しております。」
というのです。
つまり据え物とは、武士は殿様の家来だから
主君の為ならいつ討たれようとも
グーともスーとも云わず斬られるという心構えに
徹することだ、というのです。
斬られップリの良さ・・現代においては刀ではなくて、
舌とか筆と云えますが、その期に及んでジタバタする
識者のいかに多い事でしょうか。
本物なら斬りさいなまれようと泰然としておられよう、
「俺も斬られるほど他に認められるように
なったか・・・フッフッフッ」
と思ってればよいではないかと云う事です。
その四、268頁~
人は顔を見ただけで、判断してはいけない、
・・と言うこと。
とかく美しい顔には裏があります。
「捨」(シャ)と言って、初めに顔をみたときの
先入観に惑わされない。
仏のような顔をしてても当てにしない、
ファーストインプレッションを捨てること。
ジックリ、長い目で見ることが肝心であると云う事。
さすれば化けの皮は剥がれてくると云うものです。
別の角度から云えば、人は誰でもアイデンティティーを
もっています。
これは臨済の教えのなかで「一無位の真人」
と表現されています。
座標軸に当てはまらないような個性的な良さ(悪さ)
をあなたは持っています。
しかもその個性はあなたの顔から出たり入ったりしてます。
それをあなたは普段、気が付かないことが多いのです。
真人の顔が正に見えるのは、人間いざと言う時なのです。
今までとてもいい嫁で、すっかり姑の
お気に入りでしたのが、ある時 地震がグラッときて、
反射的に嫁は一人で家を飛び出しました。
幸い、家は倒壊を免れ、やがて戻ってきた嫁に向かって
姑いわく、「おまえとは三十年一緒に暮らしているが、
今にして心の底が解ったよ」・・・と。
その五、290頁~
人は「無智」なものである、と云うこと。
そもそも人は泡沫(ウタカタ)の如く、
ふわふわと頼りなく漂い、
やがて消え去るものです
。
五蘊仮和合(ゴウンケワゴウ)である我々は、
三毒を持たされております。
つまり、色受想行識を五蘊といって、
人はその肉体に感情が備わり、
体を操って意識的な行動をしていくものです。
これを指して人とは、五蘊がこの世で
仮に合体した状態だといっており、
さらにその中には貪欲、憎しみ、無智と言う三毒が、
副産物として生じている、というのです。
このように頼りない存在の我々なのですから、
偉そうに何でも知ったかぶった態度を
決してとってはいけませんよ。
そうです! 常に謙虚にいくべきなのです。
人は風にそよぐ葦のごとく、そして人は学べば学ぶほど
いかに無智であるか解るのですよ。
そう、無智なのは、自分の考えが絶対正しいと信じて、
それを改めようとしないことなのです。
自分の考えとは、自分の僅かな経験に基づいた
判断なのだから・・・と云う訳です。
その六、366頁~
「柔軟心」と「妄心」について
沢庵和尚は実に面白いことを言ってます。
僕らも日常よく陥る経験がありますが、
カァーッとすると、とかく何がなんでも我欲を
通そうとするものです。
平常心を失って、俗に云う頭に血が上った状態になります。
“もう、絶対これじゃなくっちゃぁダメ!”
これが妄心と云う奴で、水なら凍った状態だと云うわけです。
水は水らしく、何処にでも自由に広がって行けなければ
なりません。
これが本心であり、柔軟心であります。
イラついて、とかく懲り固まりがちの心を
コントロールして、「柔軟心、柔軟心」と唱えて、
立て直しましょう!
相手が妄心状態に陥ってるなと思ったら、
それを解きほぐすようにしてやらねばならないし、
心の狭い人だと決めつけてはいけません。
何故なら 只、一時、心の水が凍っただけ
なのですから・・・・。
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