立夫文庫のブログ

「立夫文庫」にようこそ! どうぞごゆっくりご覧下さい。
当ブログを、楽しく、為になる読書のナビゲーターとして、ご活用下さい。

☆ 敗戦の瞬間吉田茂は叫んだ、If the Devil has a son, surely he is Tojo !!

題  名:百年の手紙
整理番号:G-13      
ジャンル:その他
読んだ時:令和 5 年 84才     
著  者:梯 久美子
出 版 社:岩波新書


 内容・感想:
副題に「日本人の残した言葉」とあるように、様々な場面に遭遇した人が
相手先に手紙を書いております。
生々しいドキュメントが、ヒシヒシと伝わって来ます。
梯(かけはし)女史の名解説と相まって、感激します。
幾つか、印象に残ったケースをピックアップして見ましょう。


☆田中正造が明治天皇に宛てた直訴状(4頁)


明治の中期、日本は近代国家に向かって急速に文化を高めつつある時。
足尾銅山の開発も欠かせないものでした。
そこから出る鉱毒は渡良瀬川を下り、流域住民に多大の被害を生じて
おりました。


今だったら考えられない事に、お国の為に操業はストップすることなく
続けられておりました。
正造さんは一生涯、命を懸けて操業中止を訴えたのです。
明治天皇に直訴状まで書いたのです。


しかし、現代でも同じ様なことが繰り返されていると思いませんか ?
東日本大震災に依る原発事故然り、アスベストの有害性然り、
水俣病を引き起こした水銀垂れ流し然り・・・。
事故が拡大してから仕方なく止める点が変わっただけで、
いつも被害は弱者民衆です。
原発に至っては、石油事情がウクライナ戦争で変わったので、
再稼働です。


  ☆愛新覚羅慧生から周恩来へ(206頁)


天城山心中と言えば年配者は記憶にあると思いますが、
昭和32年若き慧生と、八戸出身の青年との伊豆天城山中での心中事件に
当時は衆目が集まったものでした。
満州国で清国最後の皇帝として傀儡政権に就いた愛新覚羅溥儀の
舎弟溥傑は日本の嵯峨侯爵家の令嬢 ”浩”と結婚し、慧生が生まれました。


その後、日本は大戦に負け、中国も共産党の政権になり、
溥傑は撫順の牢に繋がれていました。
日本で母親と暮らし、学習院に入学していた慧生は中国文で周恩来に
手紙を出し、父に私の手紙を届けて欲しいと直訴しました。
周首相も事情を理解し、父との文通も始まり、やがて父溥傑との
再会が許可されました。
 しかしその時既に、慧生はこの世にいなかったのです。


☆吉田茂から来栖三郎へ(96頁)


時は昭和20年、終戦直後の日本。
この手紙は、後に長期政権を続けた吉田茂首相が、喜びの発声を
手紙にして、外務省時代の部下の来栖に送ったものです。
終戦時、戦争反対の信念を以って動いていた吉田茂(当時67歳)は、
憲兵に逮捕され牢獄にいました。


If the Devil has a son, surely he is Tojo.
彼は東条英機や憲兵を如何に嫌っていたかが窺えます。
さらに曰く、「東条は戦争責任の糾弾に恐れをなし青梅の古寺に
潜伏中の由、今はザマを見ろと些か溜飲を下げ居り候」
などと言ってます。


☆児玉誉士夫からマッカーサーへ(99頁)


後にロッキード事件でフィクサーとして、田中角栄元総理を窮地に
追い込んだ児玉誉士夫ですが、進駐軍のトップとして乗り込んで来た
マッカーサーに忠実なる手紙を書いています。
時は、戦後間もなく(昭和25年)始まった朝鮮戦争の頃、
「貴下の軍隊の一員として小生と仲間たちを参戦させて下さい」
概略このように書かれてます。
児玉は右翼の大物でした。


マッカーサーの下には日本人から数多くの手紙が寄せられていたようですが
その多くは進駐軍に協力的なものでした。
児玉の言う直接参戦は叶わなかったですが、朝鮮戦争の後押しに依る、
所謂特需景気で日本は大いなる復興が出来ました。


☆端野新二から母いせさんへ(84頁)


岸壁の母・・・母は今日も舞鶴の岸壁に立って、引き揚げ船に息子の姿を
探し続けていた・・・。
しかし息子の新二は遂に戻らなかったのでした。
実に70回以上通い続けたといいます。
後に聴けば、実子ではない新二さんでしたが、親子の絆はとても
強かったようです。
母に楽をしてもらうために満州に渡り働いた新二さん、川に向かって
母に叫んだそうです。
「母さん、母さん」と。


☆谷川多喜子から夫徹三へ(145頁)


徹三氏は明治28年生まれの哲学者。
彼は26歳の折、多喜子と知り合い熱烈なラブレターを交わしました。
「私は今、ただあなたに会いたい思いでいっぱいです。・・・」


そして二人は結ばれましたが、その30年後多喜子が徹三に宛てて書いた手紙は
「私は淋しい室でひとり床に入りましたが、あなたを想うあまり寝付かれません。
こんなに年をとっても二十代の娘のように恋ふることができて嬉しいのです。」


いろいろあって情の薄れた徹三の心は妻に戻り、仲睦まじい生涯を送ったのでした。
多喜子が先に亡くなった時、徹三は愛情に満ちた「鎮魂歌」を彼女に
捧げています。