立夫文庫のブログ

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☆現在問題になってる築地市場が、日本橋から移転したのも、関東大震災で踏ん切りがついた。

    「鮪屋繁盛記」       
   整理番号:C-16            
            ジャンル:歴史         
            読んだ時:平成26年 76才
    著 者:寶井善次郎
            出版社:主婦の友社
   
内容・感想:
お江戸日本橋辺りには、江戸の昔から様々な「河岸」がありました。
「河岸」は生鮮食料を売買する場所、即ち市場でありました。
その中でも日本橋の袂にあった、魚河岸は「日に千両の落ちどころ」
と云われ、大いに活況を呈していました。

名橋日本橋保存会が監修する「日本橋」と云う月刊の小冊子が
あります。
私は友人の永井君からこれを毎月、彼が読んだ後、貰ってます。
この小冊子の6月号に、河岸特集があり、興味を持って読む
と同時に、参考文献として書いてあった、「鮪屋繁盛記」を
読みたくて探しました。

神保町の古本屋街にはなく、結局はネットのアマゾンで
取寄せる事が出来ました。
その価格、何と1円でした。
ほとんど郵送料の出費だけでした。
でも、見つかってよかったです。
今から23年前の、平成3年の出版だから、著者の三代目善次郎氏も
今はあの世でしょう。


それらは兎も角として、この善次郎氏のお店「大善」は
歴史のある、ある意味すごいお店だなぁと思いました。
当時大善の善次郎氏は、日本橋に河岸があったので、
その近くの安針町で生まれ育ちました。
そして我が母校と同じ常盤尋常小学校に通いました。
安針町は今の番地で云うと、室町一丁目辺りであり、
江戸の昔、英国から帰化した三浦安針がこの地に
住んでいた関係でこの地名が付いたものです。


読んでいく途中で、へちまコロンが出て来ます。(P40)
我が高野家の遠縁に当たる藤村千良おばさんが
へちまコロン社を経営していたのを思い出します。

P39に寶井家の系図がありますが、大善の前身である
大和田屋を号していた吉五郎の三代目の妻が、
へちまコロンの天野家から嫁いで来たといいます。
名を「よし」と云いました。


明治41年生まれの著者の親父が、この三代目吉五郎の
才気縦横振りを遺訓の中で諸々語っております。
それはもう大変な繁盛振りだったそうです。
この吉五郎は、著者の親父の祖父だというから、
この三代目吉五郎が活躍したのは、文化文政頃
(西暦1815年前後頃)と思われます。

へちまコロンの歴史はそんなにも古いのか?
そもそもコロンなどと云う横文字がそんな昔に
付けられたのかしら?

次のテーマに進みます。
P64~67に当時あった店舗の地図が載ってます。
現在まで残っている店は、数えるほどしかありません。
弁松、にんべん、山本海苔店、八木長、木屋、神茂など。
潰れ去った店も多々ありますが、大正12年の
あの関東大震災を契機として、それまでくすぶり続けていた
魚河岸の移転計画が決まり、新しい築地市場へと
移った店も多々ありました。
大善もその一つですが、牛丼の吉野家もそうだったとは
ついぞ知りませんでした。


宝井家の祖先に変わり種の人がおります。
其角と云う俳人です。
・・・と云うより、寶井姓を名乗ったのは、
其角が初代だそうです。
其角(きかく)は松尾芭蕉の門弟のなかでは、
異色の人でありました。
豪放磊落な俳句を詠み、かなりの酒豪でもありました。


時代は江戸の中期、元禄15年(1705年)赤穂浪士の
吉良邸襲撃事件は、太平の世にあって人々の一大関心事と
なった訳ですが、その討ち入り前日、吉良邸の隣では
句会が開かれており、そこに其角も列席していたそうです。

   うぐいすに この芥子酢は 涙かな
         〈 注、芥子酢=からしず 〉